「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」
(ルカ7:7)
今日お読みいただいた聖書には、神を徹底的に信頼した人が出て来ます。
一人はダニエル。捕囚期のバビロニアでネブカドネツァルに教育を施された4人の少年のうちの一人です。若かったゆえに彼ら4人は他国の文化を柔軟に吸収することができたのでしょう。その才能を十分に用いられてダニエルはネブカドネツァル王以後3代に亘って王に仕える行政官のトップとなりました。他の3人も行政官として用いられます。この4人のよく知られている物語は、ダニエル以外の3人については燃えさかる炉に投げ入れられるけれども無傷で守られた話と、ダニエルが獅子の穴に入れられて、やはり無事に守られる話で、その箇所が今日読まれました。獅子の穴に投げ入れられることになった原因は、王の命令にもかかわらずダニエルが自分の神のみを礼拝し続けたことでした。それを続けたらヤバいことになるのは目に見えていて、しかしダニエルは自分の信念・信仰を曲げなかったわけです。尤もこの4人は王によって教育を受けるその時から、選ばれた少年たちには特別にバビロニアで神殿に捧げられた肉を与えられることになったのにそれを拒み、野菜のみを食べて、しかし他の誰よりも血色が良かったという逸話もあります。つまり物語の最初から、彼らはバビロニアの風習にも宗教にも決して染まらずに、ヤハウェへの信頼を徹底して保ち、しかしバビロニアの文化を吸収し、その地で才能を用いられる存在になる、という伏線があるのです。
もう一人はローマ帝国の軍人で無名の百人隊長です。ただの軍人ではなく、どうやら人としてもすぐれた人だったようで、ユダヤ人の長老たちからも慕われていた人だったようです。この人の頼れる部下が死にそうな病にかかっていて、イエスに助けてもらうように願っていたのです。ただ、自分が異邦人であることを十分に弁えていた彼は、イエスを迎えに行くことも、自分の家に招き入れることも相応しくないと思い、イエスの言葉だけを求めたのでした。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」(7:7)。これが口語訳聖書では「ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。」(同)となっています。
この物語はマタイ福音書にも「百人隊長の僕をいやす」という同じ小見出しで書かれています(8:5−13)し、少し趣は異なりますがヨハネ福音書にも「役人の息子をいやす」という物語があります(4:43−54、特に46−50)。しかしルカにとってはもっと類似する物語があるのです。それは使徒言行録10章にある「コルネリウス、カイサリアで幻を見る」という物語です。その書き出しにはこうあります。「さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」(10:1-2)。このコルネリウスを通してペトロは異邦人の群衆に福音を語り、その言葉を語っているうちに異邦人が聖霊を受けるという出来事をペトロは目撃することになります。
使徒言行録はルカ福音書の続編とも言うべきものです。福音書はイエスの言行録であり、使徒言行録は文字通りイエスの後を受けた使徒たちの言行録です。使徒たちの手と足を通してイエスの福音は異邦人に、世界中に広がって行くのですが、コルネリウスの物語は使徒による異邦人伝道の初めの物語です。ところが、がルカ福音書には最初から「百人隊長の僕をいやす」話しが記されているということは、イエスによって既に異邦人伝道が先導されているということでしょう。つまり、宣べ伝えられる福音が異邦人にも光をもたらすものとなる時が来るし、ペトロは迷いつつ聖霊に後押しされてそれを実行するのだけれども、イエスはその先駆けとしてそのモデルを提示しているのです。ペトロは迷いながら行ったけれども、迷うことはないし罪でもない、何故なら既にイエスがそうしていたのだ、という構造を持っているのかも知れません。
それにしても百人隊長は最後までイエスの前に現れません。今流行りの言葉で言えばイエスはリモートで百人隊長の僕をいやしたのです。しかしそのためにはイエスの言葉に対する百人隊長の確固とした、揺るぎない信頼、信仰が必要でした。彼にはそれがあったのです。確固とした信頼、信仰があったけれども、彼はイエスご自身にまみえてはいない。それはそのままわたしたちにも当てはまるのではないでしょうか。
わたしたちがイエスをキリストだと信じるのは、イエスを見たからではありません。生きているイエスを知っているからでもありません。わたしたちがイエスを知るのは、イエスが語られた言葉であったり、それを聞いた弟子たちの証言だったりします。或いはそうやって伝えられたイエスを信じた先達たちの生き様に触れてということもありますでしょう。ヨハネ福音書でイエスがトマスに最後に語った言葉の通りです。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)。わたしたちは見ないで信じる以外に方法はないのです。その時、いつの間にかわたしたちは、福音書に綴られているイエスの言葉には力があると信じることになります。そこに語られていることが真実であると信じることになります。そして真実だからこそわたしたちの上に、わたしたちの側には何も相応しい成果とか能力とかが何もないにもかかわらず、神の救いというとてつもない奇跡がわたしの上に起こるのです。
気づかないうちにわたしたちはイエスの言葉を信じ受け入れていたのです。その言葉には力がある。その言葉にはもうこの目で見ることは出来ないけれどもイエスご自身が生きている。臨在の力を持つのだと信じているのです。だからわたしたちはあの百人隊長と同じくイエスに願うのです。「ただ、お言葉を下さい」。
祈ります。
すべての者を愛し、お導きくださる神さま。あなたの言葉があなた自身であるように、わたしたちはわたしたちの主の言葉を主ご自身であり、主の臨在そのものであり、また来臨の主であると信じています。私の努力によってそれをつかみ取ったのではなく、神さまによってそのように導かれたのです。だから今、わたしたちは一人一人の自覚をもって神さまに願います。「ただ、お言葉を下さい」。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。